「恐怖と勇気について」by コンスタンチン・コマロフ

「恐怖と勇気について」
by コンスタンチン・コマロフ

システマでは最近、恐怖と勇気が話題になった。それがきっかけで、私自身も自分の子供時代について考えるようになった。憶えているのは、いつも勇敢であろうと努力していたことだ。

暗闇に対する恐怖を克服するため、暗い地下倉庫にもぐり込んだり、勇気を振り絞って夜の森に入っていった。また、高所恐怖症を克服するため、屋根から飛び降りたり、崖から水に飛び込んだりもした。ケンカするのが怖かったにもかかわらず、自分より強い相手にケンカをふっかけたり、ボクシングの練習に行ったりした。例を挙げればきりがない。
小さな子供だったにもかかわらず、私はどういう訳か、もし恐怖に負けると、恐怖は自分の中で取り除くことができないほど巨大な怪物に成長してしまうことを本能的に知っていた。また、恐怖から隠れることができないことも知っていた。恐怖は自分自身の中に存在しており、毛布の下や想像上の基地に隠れても無駄だ。唯一の解決法は、恐怖と徹底的に向き合い、恐ろしい状況を直視し、自分自身に打ち克つことだ。これはいつも難しかったが、必ず効果があった。同じ状況でも2回目は、恐怖を克服するのがさほど難しくはなくなった。3回目は簡単にさえ思えるようになった。

今になってわかるのは、勇敢であろうと努力していた間、私が極めて重要で広範囲に影響が及ぶ人生の選択の多くを無意識に行っていた、ということだ。しかし、誰もが若い頃は、理由をあまり深く考えずに重要な決定をするものだ。
ところが戦争では、少し事情が異なる。私が言っているのは、訓練ではなく、困難で危険な状況に対処しなければならない実戦の場合だ。士官は戦場で、怖がっているところを見せてはならないとされている。なぜなら部下の兵士たちは「上官のやる通りにやれ」という大原則に従い、いつも士官を見ており、その真似をするからだ。そしてこの大原則は、戦闘にも日常生活にも適用される。私たちのほとんどは、いわゆる怖いもの知らずで、無鉄砲と言って良いほどだった。しかし、私たちが恐れを知らなかったのは、次の3つの理由からだった。

① 戦友に対する揺るぎない信頼
② 自分自身に対する自信
③ 我々の兵器への自信

普通のありふれた恐怖は、ほとんど気にならなかった。理由は何であれ、死について考えることは決してなかった。負傷や苦痛は覚悟していた。しかし、ある時、新たな、今まで経験したことのない恐怖が生まれた。それは今になるまで言葉にすることができなかった。私は当時、その恐怖を心の深い部分に押し込めていたが、それでも時に顔を出して、私の意思決定を妨げた。

その一番目が、戦友の期待を裏切ることへの恐怖だった。それは例えば、時間通りに任務を達成できないことや、戦場で本隊とはぐれたり、道に迷うことなどだった。2番目は、無力であることへの恐怖だった。武装していなかったり、捕虜になったり、状況を制御できなくなることは恐ろしかった。これらは私の個人的なものではなく、友人たちの間にも共通する恐怖だった。

かつて南オセティアで任務についていた時のことだ。基地で休んでいると、我々の車両部隊から雑音の多い無線連絡が入った。通信兵は「市街地で敵の攻撃を受け、釘付けになっている」と言うのが精一杯で、すぐに通信は途切れた。部隊を助けるため緊急即応部隊が10秒後に出発。他の隊員も全員、すぐに夕食を中止して、車に飛び乗り、出撃命令を今か今かと待っていた。その時だった。皆が恐怖の表情を浮かべているのを見たのは。それは戦闘への恐怖ではなかった。なぜなら誰もが戦いたくて仕方がなかったからだ。我々は、自分の身に何が起ころうと怖くはなかった。
恐れていたのは、戦友の身に何か起きるのではないかということだった。もし戦友たちを発見できなかったらどうしよう?もし到着するのが遅かったら?
その時は幸いすべてがうまくいった。我々は車両部隊を発見し、すぐにそこに到着することができた。
私は、その時に友人たちの顔に浮かんだ表情を忘れることはないだろう。この種の恐怖を克服する一番良い方法は、戦友愛と「自分は死んでも戦友を助けろ」というスヴォーロフ(無敗を誇るロシアの名将)の言葉だろう。実際、この方法は役に立った!

恐怖と言えば、はっきり覚えているもう一つのことは、私がどこへ行く時でもポケットに手榴弾を入れて持ち歩いていたことだ。手榴弾を持ち歩いていたのは私だけではなく、ほとんど全員が同じことをしていた。あなたは手榴弾を持ち歩くのは不便だし、危険だと思うかもしれない。確かにそうかもしれないが、手榴弾を持っていると何となく落ち着いたのだ。誰も何でそんなことをするのか質問しなかった。誰もそれについて話さなかったし、他人に説明もしなかった。なぜなら共通の理由があり、無言の理解があったからだ。

それから約10年間、私は合流地点に時間通りに到着できなかったり、弾薬切れになったり、自分の銃が弾詰まりを起こしたりする悪夢に悩まされた。汗をかき、息を切らし、心臓が狂ったように拍動して夜中に目が覚めたものだ。
今でも時々、そうした気分になることはある。だがシステマのお陰で、今では、そうした感情が芽生えるのを素早く認識し、私の行動に影響を及ぼさないようにすることができる。

ありがたいことに私は軍にいる間、戦友の期待を裏切ることはただの一度もなかった。しかし、無力感がもたらす大きな恐怖は2度経験した。最初は、敵が支配する戦争で荒れ果てた街で、ほとんど武器を持たず、1人だけになるという経験だった。この経験については数年前、「最後の議論」という題ですでにコラムを書いた。2回目は、自分の乗った満員のヘリコプターが墜落しかけた経験だ。それでは、このヘリでの出来事について話すことにしよう。

それは1992年の早春、アルメニアの山岳地帯で起きた。
ナゴルノ・カラバフ地方を巡ってアルメニアとアゼルバイジャンの間に武力衝突が勃発。両国は、ほぼ互角の戦闘を繰り広げた。我々の部隊46名は、500人以上のアルメニア人ゲリラが包囲する基地にヘリコプターで派遣された。我々が到着する前日、ゲリラたちは基地を攻撃し、司令官と士官10人を人質にした。そして彼らの命と引き換えに、グラートやウラガン多連装ロケット砲システムに使う砲や弾薬など基地にある重火器を放棄するよう要求していた。
我々の部隊は仕事を片付けた。どのように片付けたかは、別の機会に話すことにしよう。仕事には、ゲリラの再攻撃を退け、周辺地域での任務を完了することも含まれていた。数日で人質全員を無条件で取り戻した。しかし、基地がゲリラに再び攻撃される脅威は依然として非常に高かった。

交代する次の部隊が到着したので、我々はMI8型ヘリ4機に分乗し、本土に帰還しようとしていた。その時、我々は基地の士官の妻子も一緒に連れて行くことを決めた。それぞれのヘリが載せた人員と荷物の重さは、決められた積載量の2倍以上だった。人々はヘリの床や荷物の上にびっしりと座っていた。この任務をさらに複雑にしたのは、高地にある基地から夜間、風と雪の悪天候の中、離陸しなければならないことだった。
だが、我々のヘリには最高のパイロットたちが乗っていた。乗組員は全員、アフガン戦争の経験者だった。彼らは、今回を逃すと救助できるチャンスがなくなることを良く知っていて、全員を乗せようと努力した。リスクはあった。しかし、そのリスクはパイロットの技量と装備の性能に基づいてきちんと計算されたものだった。
私の乗ったヘリは最初に離陸する組の2番目だった。離陸するために使える場所はとても狭かったので、ヘリは飛行機のように滑走してスピードを上げることができなかった(これは、高い山岳地帯からヘリを離陸させる時に良く使われる方法だ)。私はヘリの左側の窓から銃口を突き出し、最初のヘリが離陸に3回失敗した後、左右に大きく揺れながらようやく飛び立つのを見ていた。そのヘリは左に曲がり、電柱や木にぶつかりそうになりながらも、バランスを取り戻し、上昇し始めた。

するとすぐに、我々のヘリが激しく揺れ始めた。エンジンがうなりを上げ、離陸を開始する。だが、次に私はヘリが落下し、地面にぶつかって大きく跳ね返るのを感じた。パイロットは再び離陸を試み、またドスンと落ちた。我々のヘリはボールのようにバウンドしていた。それからようやく離陸し、上昇して、右に急旋回した。窓から見えたのは空だけだった。誰かが座席から転げ落ちた。女性が甲高い悲鳴を上げる。叫び声。何かがぶつかる音。金属がこすれる音。また、何かにぶつかる。そしてエンジンが耳をつんざく唸りを上げ、ヘリの機体が小刻みに振動した。それが、どのくらい続いたのかはわからない。永遠のように感じられたが、実際は恐らくほんの3、4秒だったろう。だが、生死の狭間では時間の感覚はなくなってしまう。それはまるで、私の体の中のすべてが縮んで凍りついてしまったような感じだった。手足に力が入らず、呼吸は止まっていた。私は突然、すべてがいかに無力で、もろく、役に立たないかということを痛いほど感じていた。

我々は何とか離陸することができた。助かった。我々の優秀なパイロットは離陸に成功したのだ。私は彼らにいくら感謝しても感謝しきれない。だが、残念なことに、きちんとお礼を言うことができなかった。私たちを急造の滑走路に降ろすと、パイロットたちはすぐに基地へ帰還した。それが、生きた彼らを見た最後だった。彼らは2か月後、山岳地帯で墜落し、我々は海抜11,000フィート(約3、353メートル)の雪の斜面で彼らの遺体を回収しなければならなかった。

後日、我々の後に離陸したヘリに乗っていた人々から、我々のヘリが離陸の際、2階建ての本部棟に向かって風に流され、車輪とその支柱が本部棟の雨樋と屋根の一部に引っかかり、それを引きちぎったこと、そしてプロペラの羽がアンテナを切断したことなどを聞いた。パイロットが離陸に成功したのは、本当に奇跡だったのだ。

とにかく、ヘリが安定して上昇を始めるや否や、恐怖は消え、私はうつらうつらし始めた。我々は夜間飛行を続けた。しかし突然、鋭い横からの振動で目が覚めたことを憶えている。窓からは見えたのは、鎖のように繋がって我々の方に流れてくるいくつもの光点だった。寝ぼけていたので私は呑気に、それらを花火かはるか地上を走る列車の灯りだろうと考えた。しかし、ヘリから降りる時、機体に銃弾による穴がいくつも開いているのに気がついた。
その夜から何年も過ぎたが、私は今でも、あの恐怖をはっきりと憶えている。また、私は自分でコントロールできないような状況を避ける努力をすることを自分に約束したことも憶えている。だが、私も今では、この約束が時には守れないことをわかっている。

システマで身につけた強さと自信があれば、(過去と未来の)自分の人生について熟考し、自分自身についていろいろな事を発見できるようになる。私は、これが唯一の健全な方法だと信じている。さあ、冷静なトレーニングを通して、自分の中の記憶や印象、思考を解明し、自分の恐怖を徐々に理解し、その原因を探り、恐怖なく生きる方法を身につけよう。これが恐怖を認識し、勇気を奮い起こすということだ。

著者紹介
コンスタンチン・コマロフ氏は、2012年8月に行われたシステマ・フルレンジ・キャンプで教えるためロシアからカナダを訪れたマスター・インストラクターの1人。ロシア特殊警察軍少佐であり、戦闘心理学で博士号を持つ。また、モスクワではプロのボディーガードとして要人警護も行う。

元記事は「On Fear and Courage」です。

Tag:トレーニングTips日本語版 

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Author:TKHDKTGW
北川貴英:システマ東京主宰。08年モスクワにて創始者ミカエル・リャブコより公式システマインストラクターとして認可。16年コンディショニングに特化した「INSTRUCTOR OF APPLIED SYSTEMA」に認可。首都圏を中心に各地で年間400コマ以上を担当。システマ関連書籍を多数執筆。教育機関、医療系シンポジウムなどでのセミナーや各種媒体を通じてシステマを幅広く紹介。今なお毎年欠かさず海外研修に赴きスキル向上に努める。
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